中仙道蕨宿

中仙道蕨宿公式サイト

今もなお旧家や蔵が街道沿いに並ぶ蕨宿。
人情味あふれる、人にやさしいまちづくり、
人と人とのふれあいを大切にするまちづくりを目指しています。
中仙道69次

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2012年に開設400年を迎える中仙道蕨宿。
数々残る名所とともに、
その歴史を探ります。

弥生時代の蕨

金山遺跡が発掘された事により、弥生時代後期には、蕨に人々が暮らしている事がわかりました。

 

平安時代の蕨

平安時代末期に金子右馬助一族が住み開発の祖となったとの説が有力です。

戦国時代には足利氏一門の渋川義行によって蕨城が築かれました。

現在の和楽備神社の藤棚あたりが蕨城の堀跡とされ、蕨城址公園にはその面影が残されています。

その後、1524年、または1526年に渋川氏が北条氏に破れ落城したとされています。

 

蕨宿の由来

慶長7年(1602)より徳川政権(翌年、家康将軍となり幕府開く)、中山道など五街道の整備を進めましたが、当初は板橋宿の次は浦和宿でした。両宿の距離が約14.4kmと遠く、しかも間に戸田の渡しが(荒川の一部戸田川)があり、増水で渡れない場合困難なので、自然堤防上に宿を立てました(慶長17年=1612が有力だが諸説あり)。
宿場の周囲に堀を廻らせた特異な形態をしているが、平坦な場所に立地しているため防御上の理由と考えられています。

蕨宿は十町(約1㎞)ほどで、道幅は六間(約11メートル)と広く道の左右に街並みを形成していました。

宿場の規模は江戸近郊部では浦和宿や大宮宿を凌いで最大でした。

 

中山道とは

中山道は江戸と京を結ぶ二大街道で、元からあった東山道(とうせんどう)を利用している場所が多い事から、中山道(なかせんどう)と名づけられました。また、木曽山中を通る事から、木曽街道とも呼ばれていました。

江戸日本橋を基点に近江国(滋賀県)守山宿までの六十七宿の街道で守山の次の草津で東海道と合流し大津を経て京都に達します。

蕨宿模型(蕨民俗資料館)

 

蕨宿概略年表

1352(観応3)
「蕨」の地名が初めて文献(賀上家文書)にあらわれる。

1524(大永4)または1526(大永6)
蕨城落城したとされる。

1567(永禄10)
上総三舟山(千葉県君津市)の合戦で北条方として出陣した渋川某戦死したという。

1591(天正19)
徳川家康が三学院に寺領を寄進する。

1612(慶長17)
蕨宿が設立する(諸説有り)。

1694(元禄7)
蕨宿の大助郷村々19ヶ村が指定される。

1728(亨保13)
見沼代用水が完成。蕨・塚越村、同用水西縁用水利用開始。

1743(寛保3)
蕨宿、下戸田村と戸田渡船場の支配権めぐり抗争。

1816(文化13)
渋川遺臣の子孫たちが宝樹院に渋川公供養塔造立。

1861(文久元)
皇女和宮、将軍家茂に降嫁のため江戸に到着直前、蕨宿本陣に小休。

1870(明治3)
石川直中が「蕨郷学校」を開校する。

1872(明治5)
「蕨郷学校」が「第二十九番小学」となる(現在の市立蕨北小学校)。


昭和9年の北小

1889(明治22)
町村制施行、蕨宿と塚越村合併蕨町となる。

1893(明治26)
蕨駅開設。


昭和30年頃の蕨駅

1911(明治44)
蕨町の18社を合祀して和楽備神社となる。


明治44年の和楽備神社

1945(昭和20)
蕨町内3度空襲され50名死亡(県内では熊谷に次ぐ被害)。


昭和28年の北小

1946(昭和21)
全国に先駆け「成年式」行われる。

1951(昭和26)
第一回機まつり行われる。


昭和28年の機まつり

1959(昭和34)
市政施行

1984(昭和59)
中仙道商店街にて第1回宿場まつりが開催される


第1回中仙道宿場まつり

三学院

金亀山極楽寺と号し、真言宗智山派。本尊は平安後期の慈覚大師作と伝えられる十一面観音。
1591(天正19)徳川家康から寺領20石を寄進する旨の朱印状を与えられ、以後徳川歴代将軍より同様の朱印状が与えられています。

子育地蔵尊
1694(元禄7)に三学院の秀鑁が中心となり多くの人々の協力を得て建立されました。高さは2.4メートルあり、蕨市最大の地蔵尊です。
昔より人々に親しまれており、火伏、開運、子育の霊仏として今なお人々の信仰を集めています。以前は毎月4のつく日に縁日が開かれにぎわっていましたが、今は8月24日に地蔵尊縁日が開かれており、多くの人々に親しまれています。

子育地蔵尊

蕨双子織と機神社

江戸時代後期以降には、 大規模な綿織物生産がさかんになりました。

蕨の機(はた)織りの先覚者である「高橋新五郎翁」は、現在の塚越稲荷神社境内にある「機神社」に「機神様」として祀られています。

新五郎翁は、文政9年(1826)7月7日(旧暦)の霊夢のお告げにより、それまでの高機(たかはた)に改良を加え「青縞(あおじま)」を織り始めたところ、江戸の市場を圧倒する人気を得、江戸の大丸、三越、白木屋などに直送されるほどの人気でした。その後、普段着などにする「双子織(ふたこおり)」を世に出し、綿織物生産地・蕨は、全国的に知られるようになりました。

いつのころからか、この7月7日を機業創始の日として、同業者が集まって「機神社」に参拝するようになったのが「機まつり」の発祥となりました。

蕨駅開設と蕨宿

明治26年に蕨駅が開設されましたが、蕨宿は鉄道建設に反対、賑わっていた町から離れた現在の蕨駅の場所に建設されました。

そのため、蕨宿は現在でも伝統的な家々が残る貴重な場所として残されています。

全国に先駆けた成年式


第1回成年式

昭和21年、全国で初めて成年式(成人式)が蕨第一国民学校(現:蕨市立蕨北小学校)にて行われました。

現在は蕨城址公園に「成年式発祥の地」の記念碑があり、蕨市では現在でも成年式と呼んでいます。

蕨宿の地域発展へ

昭和26年、第一回機まつりが行われました。

また、昭和59年に商店会青年部の発足と商店会の改名を記念してイベントを行うことになりました。

それが『中仙道武州蕨宿宿場まつり』です。

昭和62年の中仙道宿場まつり〜織姫行列〜

歴史と地域文化を活かしたまつりの企画ですが、特に注意したのは、他のイベントとの差別化を図ることでした。

“見るまつりから参加するまつりへ”という考えを具体的な目標に掲げました。

そして、とにかく市民の方々が多く参画してくれるような「創造的なまつり」にしたかったので、
“きてみて、みてみて、やってみて”というキャッチフレーズをつけました。

現在では、中仙道蕨宿の発展のため、「現代の宿場」を目指して地域で日々活動を行っています。